Dec 26, 2008
リビングのシャンデリア。
家の居間には、素敵なシャンデリアがあります。このリビング素敵なインテリアは、家に父が新築を購入した時からずっと付いているシャンデリアです。この家では、ご注文後、また30年以上経っていますが、このシャンデリアは30年以上の家で素敵な明るい光を放っています。まだ長いようです。シャンデリアを設置する一般家庭は、今もクェイトヌンガ?私の経験20年前、30年前に建てられた家の居間には今もシャンデリアがぶら下がっている確率がかなり高いようです。もホコリがたまりやすく、電球や蛍光灯を多用し、電気の消費量が多いので、最近は人気が落ちているのではないかと思います。
◇バラックから再開、人通りなく
広島は間もなく66回目の「あの日」を迎える。一発の原子爆弾で、豊かだった街の色彩は奪われた。戦後、街は再興され、ビルが並び、広い道路も造られてにぎわいは戻った。その一方、路地や趣ある建物、それらが織りなす風景など失われたままのものもある。今回は、現在の広島本通商店街の東の端にあった旧平田屋町と、その南側の旧鉄砲屋町の記憶をたどる。【加藤小夜、藤顕一郎】
◇「涙の一滴も出なかった」−−世良邦治さん(81)
「ここだったんです」。若者でにぎわう広島本通商店街。ゲームセンターの前で立ち止まると、そう言った。
父は戦前、伯父と旧平田屋町で「世良家具店」を経営していた。木造3階建て。「家具のデパート」として、タンスや机などの家具だけでなく漆器や焼き物などの調度品などが並んだ。1階はガラスのショーケースに展示、2階の一部はギャラリーで伊東深水ら著名画家の作品を紹介し、郷土の作家には安く場所を貸した。太平洋戦争が激化すると仕入れができなくなり、看護師の寮として貸し出した。
自宅は、商店街の一本南の通りに面した旧鉄砲屋町にあった。周辺には旅館が多く、相撲興行があれば、浴衣姿の力士であふれた。戦争が激化すると、出征前の兵士が家族と最後の別れを惜しむ姿が目立った。
中学時代は滑空部。「パイロットになって(敵陣に)突っ込んで早く死んでしまうんだろうと思っていた」。3年の時、爆心から約2キロの学徒動員先の工場で被爆。己斐の山まで逃げて翌朝自宅跡へ戻ると、馬の骨が並んでいた。あの日に両親は疎開をする予定だったと聞いた。遺骨は焼け跡から数日後に見つけた。「まひしていたかと思うが、涙の一滴も出なかった」
戦後は伯父の別荘の裏にバラックを建てて住んだ。高校を卒業し、「資金がなくてもできる」という理由で、市内の和菓子屋に見習いで入った。「砂糖は進駐軍から闇で仕入れたのを使っていた」
1953年10月、結婚と同時に自宅跡で御菓子所「多津瀬」を開業した。嫁入り道具のげた箱にクロスを掛け、その上にガラスケースを置いてのスタートだった。「こんなに体が疲れるもんか」と感じることもあったが、「原爆(のせい)だと言っても、生きていく場はどこにもない」。歯を食いしばって生きてきた。家具店で扱ってきた美術工芸品が脳裏にあり、「実質を伴ったお菓子を美しく仕立てる。季節の趣で感動してもらう」ことに力を注いだ。深夜に必死に勉強した。
「昔の良かった建物や人が全部破壊されたんじゃからね」。記憶の中には昔の街のたたずまいが、しっかりと残っているようだった。
◇顔ぶれ変わった商店街−−福間昭三さん(82)
「新しい店が増えても、にぎわいがあることが一番。寂しさはまったくないよ」。原爆で一帯が焼け野原となり、人通りがなくなった当時を知っているからこその言葉には重みがある。
元々傘屋で、今は紳士服も扱う「フクマ専門店」の社長。法人化した前年の1928(昭和3)年に生まれ、会社と共に旧平田屋町で人生を歩んできた。
自宅兼店舗があったのは、商店街と路地の交わる角地。小学校に上がるころには、中島(現在の平和記念公園)からにぎわいが東の方に移って来た。路地で投げ玉やビー玉遊びをして遊んだ。店頭には和傘ではなく、モダンな洋傘が並んでいた。「着物の上から羽織るショールみたいなものも置いていた。当時はまだ珍しいもので、街にも人にも華やかさがあったね」。普段の食事はご飯と味噌汁だったが、金座街にあった洋食屋に家族で出かけ、オムレツを食べるのが楽しみだった。
戦況が激しさを増すと、人通りが次第に減った。たたむ商店も増えていった。製造元が生産をやめて仕入れが難しくなり、41年にいったん廃業した。土地を人に貸して、家族で五日市町(現・佐伯区)に引っ越した。
すぐさま歩兵銃の工場に動員され、45年5月に海軍入隊。原爆投下時は、呉の山中で幹部候補生として訓練を受けていた。商売を再開しようと戻ったのは48年だった。「バラックの店が多く、顔ぶれも変わっていた。一番ショックだったのは人通りがなかったこと。でも、おまんまのためには必死に働くよりほかになかった」。いとこと傘の修理を始めたが、客足はなかなか戻ってこなかった。それでも朝8時半から夜10時過ぎまで休みなく働いた。
3年後に傘の販売を再開。人通りが増えると、生活必需品として売り上げも上がった。そのたびに建て増し、55歳で社長となった。
周辺はデパートやファッションビル、飲食店が建ち並び、今も若い買い物客でにぎわう。「時代が変わったんじゃけえ、雰囲気が変わって当然。いつまでも人通りがあって、にぎやかなままでいてほしいね」。そう言って笑った。
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■ことば
◇旧平田屋町
現在の広島本通商店街の東端から約130メートル西までと、その周辺にあった。明治、大正、昭和初期にさまざまな商店が開業し、にぎわいを見せた。「下村時計店」や和装小物販売「ゑりべん」は現在も営業を続け、うどんと和菓子の「ちから」もこの町で創業した。
◇旧鉄砲屋町
古くは鉄砲鍛冶屋が複数あった。戦前には10軒以上の旅館が建ち並んだ。本通りの一筋南にある現在の裏通り・通称「うらぶくろ」は、戦後新しくできた。
両町の東側には戦前、運河として造られ、広島城の堀から御幸橋の辺りまで流れていたとされる「平田屋川」があり、橋も架かっていた。両町とも1965年に町名が消え、旧平田屋町が本通・立町、旧鉄砲屋町は袋町・本通となった。
7月28日朝刊
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